■その一 ~時代は便利になったよね~
時代の進歩によって人は過去に比べて、より早くより大量の情報をたやすく得ることが可能になりました。クトゥルー神話の成り立ちや量子力学の概要、明治神宮の敷地面積。キーワードを検索ボックスに打ち込めば数秒でどんなものかがわかります。過去であればそうはいかず、特定の施設や図書館など、もしくは専門だったり得意とする人なら知っている、という具合でした。
常用的とは言いがたい数々の専門知識が、誰にでも広く手に入ることができるようになった一方、ひるがえって創作の世界を見てみましょう。最近のものを例に出すと『這いよれ ニャル子さん』。あれは(一部)クトゥルー神話が元になってます。では、ニャル子さんのアニメが始まったこの時期に、たまたまクトゥルー神話を元にしたギャルゲーが発売されたとしたら、何となく心がざわっとしませんか? それは「あ、ネタが同じだ」と思ったからでしょうか?
そもそもネタが同じとは、どこからどこまでの事を言うのでしょうか。非ゲーマーな筆者の友人は、「Xbox 360のゲームはみんな戦争ゲームに見える」そうです。確かに360は戦争ゲーが多いですが、同じではありませんよね。「戦争」というテーマが同じなだけで、システムもストーリーも違います。共通項が「戦争のゲーム」というだけです。
仮に「ニャル子さん」とクトゥルー神話を元にしたニトロプラスの作品『斬魔大聖デモンベイン』が同じ時期に世に出ていたとしても、ネタがカブっているのは「クトゥルー神話」という部分だけです。ストーリーも世界観も違います。カブってる度合いは先の戦争ゲームたちと同じはずです。しかし、そう感じにくいのは「よくもそんなニッチなテーマがカブったなぁ」と思わざるを得ないから、ではありませんか?
余談ですが、筆者は『デモンベイン』でクトゥルーに入りました。引き合いに出しちゃってますが、アル・アジフ大好きですよ、ニトロプラスさん! あとニャル子も毎週見てますよ! 閑話休題終わり。
ある創作物のネタが自分の知っている創作物とカブったとします。ここからは人それぞれだと思いますが、ネタがカブったという偶然に対して、後発のものの評価が落ちる人もいれば、なんとも思わない人もいるでしょう。ネットでは条件反射的に知識豊富な方々によるカブッてる点指摘合戦が起ることもありますが、それによってどんな心理的効果があるかはさておき、ここで重視したいのはこれからの対応についてです。
繰り返しになりますが、我々の日常は情報と娯楽で氾濫(はんらん)しています。あらゆる創作物がはびこる現代、ネタがカブったという事態をいちいち取り上げていてはキリがありません。そして、事の本質はネタがどうとかそういった角度の問題ではないのです。ここで肝要にしたいものは「オリジナリティー」と呼ばれている成分です。
■その2 〜人も器用になったよね〜
あくまでも私的な感覚ですが、昨今はオリジナリティーというものがないがしろにされている風潮を感じます。それこそ、オリジナリティー()くらいに感じます。どうしてこうなってしまったのでしょうか。それはきっと、100人には100通りの考えがある、だけど材料をそろえること自体は可能になったから、ではないでしょうか。
どういうことかというと、「100人には100通りの考え方がある」これは言葉通りの意味です。ですが、創作において空手から何かを作り出すことはまれで、まずは何かしらのテーマや世界観といった「柱」を用意することになります。恋愛や戦争、もしくは何かをモチーフにしたりなど。では、「俺はありきたりなテーマは避けて意表を突いたテーマでいくぜ!」というありがちな心理がはたらいたとき、どうやって「意表をつくテーマ」を探しますか? ひょっとすると、意表をつこうとした人たちは「変わった本棚」を探してるんじゃないですか、みんなして。
この変わった本棚が「渋滞」しているのが創作の現状のように思えて仕方ありません。皆が皆、意表をついたテーマを狙おうとしているのです。それはなぜか。カブらないようにするためです。
これって、本末転倒じゃないの? というのが筆者の意見ですが、今回それはおいといて。オリジナリティーというものを大切に思っているのなら、必ずしも奇をてらったテーマにする必要はないと思います。カブっていても構わないのです。なぜなら、「テーマを内包した創作物全体の完成度」がオリジナリティーだからです。もちろん、テーマの選定それ自体も作り手の感性が見え隠れする部分ではあります。
「創作物」というものが、粘土細工であるとしましょう。粘土で何かを作ってくださいと言われた時、他の人とは違うものを作ろうとする人もいれば、無難な形をつくろうとする人、細部にまでとことんこだわる人、自分の作品よりも他人の作品を気にする人など、その過程においても色々な違いが出るでしょう。オリジナリティーは直訳すれば「独創性」となりますが、それは常軌を逸していればいいというものではありませんし、目立っていればいいというものでもありません。なんというか、「尊い」と思えるものではないかと思うのです、筆者は。
この考えは商売とは縁遠いものだとは思いますが、オリジナリティーは創作物の作り手だけでなく、受け手も磨かれるべき感性だと思います。そうすることで、「その人の楽しみ方」という部分が形成されていくだろうと考えるからです。やかましいレビューや世間の評価に流されず、自分自身が創作物を自分なりに享受するというスタンスを多くの人は忘れているように思えてなりません。しかし、一部の辛口レビュアーや評価人たちの意見が必要なのもまた事実。何事も一辺倒ではよろしくないのです。
そこには、「たくさんありすぎてどれを選べばいいかわからない」、という背景があるかと思います。ですが、そもそも「どれを選べばいいか」なんてのは人に指示されるものでしたっけ? レビューなどはあくまでも選ぶための指標であったり、評価はあくまで評価、品評にすぎません。口をあけてぼーっとエサを待つペンギンのように、与えられた娯楽を享受するだけではいかんのですっ(ドン!)。
■その終 〜秩序の無い現代にドロップキック〜
昨今は変わったタイトルのラノベが多いですが、あれは象徴的です。善し悪しではなく、今はああいうのが良いんだ、と。どうしてなんでしょう。ウケるから? 変わってるから? 読者が入り込みやすいから? 何かしらの理由はあると思いますが、どことなく感じる雰囲気がみーんな「似てる」と思ってしまうのです。
それはラノベの世界だけではなく、それを含む創作物の世界全体にはびこっている流行り病のように見受けられます。
たかが娯楽、されど創作。作り手にとっても受け手にとっても、創作物に対して正直に向き合いにくくなっているこの頃、今一度「娯楽(ゲーム、アニメ等)」を見つめ直す時ではないでしょうか。この根底は「自分」たるものの喪失ではないかと筆者は思いますが、それはいつか別の機会に。とりあえず今回は...
オリジナリティーを忘れ安易なテーマ選定に走る作り手も、創作物を海原雄山の如く召し上がる受け手にも、ドロップキック!
(ヤマダユウス型)
本記事はゴールデンウィークの企画として、Kotaku JAPANスタッフに自由なテーマでコラムを書いてもらったものです。以下のリンクから、ほかのコラムもどうぞ!
2012年GWコラム